オ・ト・ス・ク・ナ
―古代編―
3 首長の沼(後編)
つくり終えた網をもって、春吉が草陰に潜ってから、しばらく時が経った。その間、二人の女のあいだには、無言の対話さえほとんどなかった。日が白雲に翳り、地上の日向が薄い蒼色を帯びたとき、ただ一度だけ、おそくねえか、と蛇の娘が言った。蜘蛛の女は微かに首を振り、奴は寝ているのだよ、と言った。それきり、二人はまた沈黙した。
(ちっ。糸をつけたか。余程大事とみえる)
蛇には納得しかねた。蜘蛛の女があのオトスクナの少年にこだわる理由が。蛇は舌を出しかけてやめた。そして、ふと自分の心にいらだちがあるのに気づいた。誰にともなく。しかし、強いて言えば己自身に。それは恐怖によるものだと思った。何せ、自分が食われる可能性を考えもせぬ少年の愚かさを見下したその直後、自分がこの少年に食われる可能性を考えていなかったことを思い知らされ、うすら寒い心地を覚えたばかりなのだ。
(わからねえ油断をしたもんだよ)
そう思いながら、再び雲間から日が覗く頃、蛇は本性の姿に戻り、草間を過ぎる鼠を狙った。距離が詰まる。と、首を突き出して小さな獲物を食む時、何か妙な感じを覚えた。音がない。そう思った。食うことには、この営みには、オトが足りない。……蛇は獲物を飲み下し、尾っぽを地面にすりつけてそんな違和感を振り払った。やはり自分は調子が狂っているのではないか、と思った。しかしすぐにまた考えが湧いた。オトとは、何だ。
――狂っているな
そう言われて振り返ると、そこには森の闇に合わさるように同化した、幾本もの細長い脚の影があった。蛇には一瞬、その言葉が自分を指しているように思えた。しかしすぐに、おかしい、と思い、訊き返した。
――何が狂っている
――風だ
と言って、脚の影の一つがゆらりと揺れた。
――調子の狂った風が吹いた。そう遠くないところでな
大蜘蛛は静かな中にも嫌悪の情を含んだ声で言った。
――そうかい、姐さん。そういや、ここの空気もぬるい湿けかたしてるな
蛇は喉の奥で、卑屈な音をたてて笑った。
――首長(くびなが)を知っているか
闇の中の四つ目が煌々と輝いて、問う。その時、蛇もまた、風の異様をはっきり感じた。
――知っている
――そのものを見たことがあるか
――あるはずがねえ。あたいが生まれた時にゃ、奴はとうに眠っていた
再び太陽に薄い雲がかかる。いつの間にか、青く澄んでいた空は、心を欠いたように薄白く濁っていた。また、一陣、妙に速い風が吹いて、止んだ。
――そうか
と蜘蛛が言った。表情の欠片も読ませない目だった。
――その首長が、今、目を覚ました。おまえは、逃げるがよい
蛇は応えなかった。蜘蛛の影は、春吉のいる草陰の方を見ていた。
――姐さんは、逃げねえのか
――必要ない
――だけどよ
と蛇は言い淀んだ。そしてそのまま動かずにいた。蜘蛛の声が静かに言った。
――それとも、おまえもあの少年を待つか
蛇は草陰を振り返ると、べろを出し、引っ込めた。やはり納得しかねるものがあった。蜘蛛は春吉の行動に干渉しない。しかし、そのあるがままを観察しようとしている。ただ声をかけ、危険を知らせ、逃がすのは容易いにも関わらず。春吉はオトスクナだ。それは、希少なる者であろう。蛇は呼びにいこうか、と思った。そして、いや呼びに行くことは無い、と思った。わざわざ、自分が保護してやることはないと。
しかし、蛇は逃げることもしなかった。ただその草陰の闇を見ていた。
(また、わからねえ油断だよ)
空がゆっくりと回るのを、その小さな額で感じながら、蛇は自嘲した。
(そしてその何だかわからねえ油断のために、あたいはまだあいつの帰るのを待っている)
隣には、人間の姿になった蜘蛛の女が自分を見ていた。その目は、蛇のことをも試している目のように感じられた。蛇は急に笑い出したい気持ちになった。
(そうだよ。考えてみりゃ、あたい、初対面で負けているじゃねえか、この小僧と蜘蛛の姐さんに。くつろいでいる場合じゃあないんだよ。奴らからも逃げるべきかもしれん。このまんまではあたい、奴らの弁当かもしれねえ。なのに、なんで)
そんな思考ばかりがだらだらと回る、動きのない時間が、ふいに途絶えた。
水気を帯びた陰気な風が吹いたのである。
蜘蛛の女は目を閉じて改めて距離を測った。「首長」は目を覚ましている。蜘蛛の女と蛇は互いの目で何かを語り合う。女は薄く冷たい微笑を浮かべ、姿を消した。
蛇はするすると草陰を這い、樹を登ると、大して遠くないところに少年の気配を見つけた。隣の樹、そのまた隣の樹へと滑り移ると、飛び下りざま、人間の娘の姿に転じた。
少年の頭上、呆れて開きかけたその口から、遅れて声が飛び出した。
「起きろぉ! 春坊!」
オトスクナは草で編んだ罠を握ったまま、昼寝をしている。
「ほら、だらけてていいのかい! 餌探しはどうしたい!」
仰向けのままむにゃむにゃ言っている春吉を、さらに怒鳴りつける。
「ぐずぐずしてっと……」
蛇の娘は、にたあ、と笑う。
「喰らっちまうよ」
春吉は目を閉じたまま、ほんの少しそわそわとした様子で囁く。
「喰われっと、えーと、喰われっと、痛いだか?」
「ふふふ。それも刹那のことよ」
娘はしゃあと歯をむいて、脅かすように長い舌を垂らす。春吉は目を開ける。
「蛇ちゃん、ええ歯だがや」
「へ?」
「きれいによう揃ってっと」
「あー、まあな」
「ええ歯だなぁ」
「えー、あー、まあ、あたいの歯は強いね」
春吉はむくりと置き上げると、ゆっくり伸びをした。蛇はやる気を失くしたように、だるそうにまた小さな本性にかえった。春吉はそれをひょいと掴み、肩の上に乗せると、背後を振り返り、蜘蛛の女がいるのに気がついた。少年の顔は明るくなった。
「おー、おらの蜘蛛ちゃん、おはよ。おらな、なんか夢見てただ。そんでな、何の夢か忘れただよ。あは。そんでな、蛇ちゃんの歯な、ええ歯だっただよ。あとな、しゅうーって小さくなっただ。肩に乗せてみただよ。何かええ感じだよ」
蛇は舌を出し、引っ込めると言った。
――もうちょい落ち着いて話そ、春坊
「ああそうだ、蛇ちゃんな、持ってみたら、思ったより小さかっただよ」
――もうこの馬鹿は、何を言ってもあたいへの敬意のかけらもねえや
蜘蛛の女はその不可視の腕で春吉の頭を撫でながら、言った。
「蛇が気に入ったか。これは面白い生き物だから、飼うといい」
――あたいへの敬意のかけら……
と蛇が何かぽつりと何か言いかけたその時、再び陰気な風が、強い調子で吹き抜けた。重なり合う木々が揺れ、一瞬、辺りは夜のように暗くなった。そう思った刹那、今度は背中から逆向きの風が吹いて、低い声にも似た音とともに消えていった。再び陽光がその頬を掠めた時、春吉は、さも恐ろしいといった表情で、自分の両手を見て、言った。
「おらの笛……」
――笛がどうしたね
「おらの笛、持ってかれちまっただ。あの変な風に」
そして、ぐずりそうな顔をした。
と、少年は突然、風を追いかけるようにして、とたとたと走り出した。
――おい
と肩の上で蛇が止めたが、かまわず走った。
走り続けた。木々のあいだを抜け、苔生した根を飛び越す。進みに迷いがないのを、蛇はいぶかしく思う。少年はある地点を目指しているようだ。軽い跳躍に振り落とされそうになった蛇は、少年の二の腕に三周巻き付いて、二・三度きつく締めて、返事を求める。
――おい春坊、何を追ってる、何か言え
「お妖怪さまだ」
と春吉は応える。その横顔を見て、蛇は今ようやく合点がいった。
――おまえ、聞こえるのか
「聞こえるだ。何かへんてこなオトがするだよ。おらの笛もそこにあるだ」
――どんな奴だ?
「蛇ちゃん、でかいお妖怪さまだよ。にょろにょろしてるだ」
――あたいみたいのでなくて?
「もーっとにょろにょろぬめぬめしてるだ」
蛇がびくりとして首をもたげる。
――あ、あたいより、にょろにょろしてんのかい……?
春吉は何がおかしいのかふふふと笑うと、
「おお、してるしてる。イキがいいだよ」
言うと、転びそうになった足をたたたと弾ませる。
――ちょっと待ちィ、あたいより、にょろにょろしてる奴ってェ、何もんだ?
「きっとうなぎだよ。うなぎのお妖怪さまだよ。ふふふ」
蛇はしばし黙っていたが、くいと首を背けて言った。
「あたい、行かない」
春吉が思わず立ちとどまると、蛇は彼の左腕から背へ、左腰へと下ってゆくと、
――行くなら一人で行きな、オトスクナ!
そう言い捨てて、樹へと這い移り、するすると登っていった。
「蛇ちゃん」
呼んでも返事がない。
「蛇ちゃん」
しょんぼりと呟く。そして自分の腰、笛のなくなったその寂しい腰のあたりをぽんぽんと触ってから、既にかなり近づいているそのオトの在処を目指して、再び走り出した。
樹上から蛇は、春吉の頼りなげな後ろ姿を見ていた。そして、その後ろに現れた白い着物の女の気配に、何かを話し掛けようとして、やめた。
日が陰った。地上のすべてが薄青い色味を帯びて見える。
蜘蛛はふうとため息をつくと、考えありげに訊いた。
「おまえは、首長が怖いか?」
蛇は黙っていた。
「それとも、春吉が怖いか?」
ちらりと見れば、春吉の後ろ姿は薄青い闇の中へ消えていた。蛇は蜘蛛の言葉を無視して、再び娘に変化して、くくく、と笑った。
「どうした」
横を向いたまま、蜘蛛が訊いた。冷たい風がゆるりと吹いた。続く沈黙。やがて。
「こわいって言えば、こわいなあ」
蛇の娘はぽつりと言った。背後の女の白い顔の下で、幾つもの不可視の眼が微かに光る。
「奴らのことじゃあないよ! あたいは……」
その声には、微かに胸に詰まるような調子があった。
「わからねえのが、こわいよ。わからねえってのが、一番こわいよ」
また、陰気な風が吹いていた。蜘蛛の女は冷たく微笑んで言った。
「蛇の妖。おまえは何をわかり、何をわからぬと言うか」
娘はきまり悪そうに眼を細め、そっと微笑み返した。
「参った。途方も無いことを訊くんだなあ、姐さん」
「そうだな」
「わかること、か。……さて、なんだろな。あんよで歩く弱い奴は、大抵、あたいの餌なんだ。別に奴らに恨みはない。だけど、食えるからいただく。そんで、強い奴は敵だった。みんな食いたいのはいっしょさ。だから、邪魔してきたら、噛みちぎる。あたいはそこそこ強い蛇だと思うよ。人間どもが相手でも負けやしない。食ってやったり、噛みちぎってやったりだ。こういうの、いいねえ。とっても、わかるねえ」
風が止む、二人の眼は自然と風の吹いてきた方角を向いた。
「なあ、餌とか敵とか、こういうのって、あたい、よく出来上がっていると思うんだ。自然の掟ってやつだ。わかりやすい。だけど、春吉は……、いや、あいつのオトは……」
蛇はいつのまにか、小声になっていた。
「餌だったり敵だったりして、でも、気がついてみれば、何でもないんだよ。何でもない奴なんだ。ふしぎな奴なんだ。いやな具合に、体ん中を抜けていくんだ。抜けた後ぜんぶ、掟も何もかも透き通ってくんだ。わからないんだ。あんなの、あたい、許せない」
蜘蛛は、ああそうか、と思った。そうだったのか、と。彼女は不思議と思考が澄んでゆくのを感じた。しかし、そうした思考よりもさらに深いところで、記憶の底から、少年の笛の音が響いていた。あらゆる理解の後ろの方で響いていた。オトは、掟から生まれ、掟の後ろへと擦り抜けていく。オトスクナは、オトと共に逃げ続ける。彼の掟からも、彼以外の掟からも。そうした異端を許してよいものか、と思った。しかし同時に、その異端のすべてを、彼女は許せるような気がした。蜘蛛は、どうしたことだろう、と思った。自分は少々、妖というものからも脱落しているのかもしれない、と……。
「この湿った風は、首長のお目覚めってことかねえ」
蛇の娘が言った。気配はいよいよ濃厚になっていた。
「姐さま。行くなよ」
と後ろを振り返る。が、蜘蛛はすでに闇に姿を消していた。
首長の首が、あった。そこは沼か湖か。どっしりと重い空気を吸っては吐く、巨大な水の溜りである。そこに浮かぶ一本の黒い首が、一人の少年の姿をじっと窺っていた。
「見っけた!」
少年は水の溜りの前の石の上にある、笛にとびついた。笛を持って、空に翳し、その滑らかな表面を指で撫で、あはは、と笑う。そして、ちらと目の前に聳える黒い首の方を見る。黒い首は何も言わない。春吉は首を傾げてから、にこりとして呼びかける。
「鰻さま。なにしておられるの?」
首がゆっくりと動く。その根元が大きくうねり、水面をゆっくりと震わせる。
「なあ鰻さま。なして、にょろにょろしておられるの?」
ヌシは蒼く輝く眼光を少年に投げかける。
――ヒトか
掠れたような男の声で訊いた。憂鬱げな声である。春吉はがっかりした。
「あー、お妖怪さま、男だっただか。蝶々のあにさまもだけんど、今日はなんてえか、男だらけの日だなあ。ふたり続けて男だっただよ。なあ、蛇ちゃん、蜘蛛ちゃん。また男だっただよ。おら、会うなら、女のお妖怪さまに会いてえんだけんど」
と目をうるませながら言う。しかし、蛇も蜘蛛も近くにいないことを思い出し、しばし呆然となった。辺りをきょろきょろと見ると、とうに知らない場所に来ていた。
――ヒトよ。手にしたそれは、おまえの生きるための品か
首長の目が薄青く陰気に光った。
「生きる? わからねえけど、これは、おらの笛だ。おら、笛吹きの春吉だ」
――示してみよ
春吉は首を傾げながら、手製の笛を指差した。首長は間髪入れずに罵った。
――示してみよ。樹木の亡骸と人の亡骸が合わさり、何を歌うのか。おまえが生きるということは、如何様のことか。のう、オトスクナ
均斉のとれた無数の波紋を広げ、水面から複数のされこうべが出現する。たくさんの黒い眼窩が、少年をなめまわすように見つめてくる。
――人の命から生まれたおまえが、わしには面白い。人の哀しみも残虐も、わしには面白い。おまえはかつて人からこぼれ落ちた。そして今、オトに身をゆだね、ただ何もせずにうろついている。それは何ゆえか
「わかんねえ」
と春吉は言った。声の色は、少し哀しかった。
首長のまわりで、されこうべはせわしなく浮上し、宙に持ち上がっては、墜落する。水面を離れる度に、眼窩を少年に向け、おのおのカーンと高い音を立ててひび割れると、力尽きたように水底へと沈没する。首長は低く笑った。
――こんなにもたくさんの声が、おまえを笑っている。おまえを見定めようとしている。それは何ゆえか。ああ面白いことだ。何とたくさんの声だろう
髑髏がまたひとつ水面に浮上してきた。髑髏の眼が春吉をとらえる。はかる眼だ。査定しているのだ。気が逆巻く。髑髏の中の記憶がヌシへ伝染してゆく……。
――ある者は、おまえなど知らぬと言う。ある者は、おまえを憎んでいると言う。ある者は、おまえを偽りの笛吹きだと言う。楽の曲も、匠の名も、誰からも与えられなかったおまえの笛は、ただ畑の土と草だけが聞いた笛だとな。またある者は、おまえのために飢えて死んだと言う。我が下に眠るされこうべが、おまえを見て笑っている
首長はゆっくりと首を近づけた。それだけで湿気るような、深い苛立ちと軽蔑、そして嘲りがその首の中で渦巻いている。邪念の塊は、じりじりと陸に近づいてゆく。
――答えられぬか。おまえが生きるということは如何様のことか。おまえにも、人間のされこうべにも、わからぬと言う。ある者は、おまえの笛は笛でないと言う。笛の匠の掟から、かくも離れたものだと。ああ面白い。わしにだけはおまえがわかる。おまえは異端だ。この森を汚している。掟を掟としない不埒な存在として、森の者を怯えさせる
春吉は黙って砕けた髑髏の破片を見つめた。笛の匠。そのどす黒い言霊を、微かに覚えていた。腕に何かぬるいものが伝うような気がして、思わずしゃがみ込んだ。
――オトスクナは、いらぬ。おまえのオトは、理を歪める
青黒く輝く眼。震えている少年を捉えるそれは、殺すことへの意思に満ちていた。
その時、一塊の複雑な陰影が、草の葉を散らし、縦横に展開した。辺りに闇を下ろす、静かな威嚇。その威嚇は少年に忍び寄る首長を引きとめる。
――私のオトスクナから離れろ
その声を春吉は覚えていた。蜘蛛の女の音程だ。鋭利な肢の影が、草木に不穏な縞を投げかける。その後ろには蛇がいた。驚いたように目を見張り、成り行きを見守っている。
――虫よ。森の所有者に逆らうか
首長が微かに戸惑いを滲ませた声で言った。
――なぜこれを生かそうとする。これは理を歪める者だ。人から捨てられ、転げ落ちてきたために、今度は我々が抱えることになった、汚れだ。汚れたオトだ
――そのオトを侮辱するでない
蜘蛛は静かに言った。
日の光が陰ったその時、おびただしい数のされこうべの破片と岩が浮上し、大蜘蛛を目がけて降り注いだ。不気味なほどに統率された、湿ったオトが鳴り響く。森の明と暗が目まぐるしく動く。しかし、そこには既に蜘蛛の姿はない。
首長は身をひねる。その背後で、不可視の四つの眼が首長を捉えている。
首長はもう一度向きを変える。途端、黒い鍵爪がその首を狙った。しかし、かわされる。
反撃に間髪はなかった。轟音。地上の春吉は耳を塞いだ。波が吹き荒れ、陸を洗う。誰もが一瞬視界を失う。蜘蛛の体に水滴が焼き付く。低く息を吐くと、蜘蛛はじりりと後退する。水が浸食し、木が巻き込まれる。既に、一部の地形が変形している。
――なぜ生かそうとする。異形同士の憐れみ合いか。わしの森にはいらぬ
再びの水の打撃。蜘蛛はその本体を収縮させ、森へと紛れる。不可視の手、不可視の爪、不可視の脚を従え、女の半身は影にもぐる。瞳は燃え、両の手は怒りに震え、身体にまとわる忌まわしい水分を威嚇の気で蒸発させている。
――やめろよ、姐さん
木の枝から下りて、蛇は蜘蛛の腰へと巻き付き、弱々しい声で説得した。
――水はあんたの天敵じゃあねえのかよ?
しかし、首長の額の意識は、確実にふたりを捉えた。声が響く。
――哀れな異形よ。異形の虫よ。ある者は、おまえはかつて同族から疎まれた者だと言う。ある者は、おまえは人に憎まれた異形だと言う。それにも関わらず、人との接触を犯した哀れな者だと。ある者は、おまえはこの森の最も深い闇に潜り、他と干渉せずに暮らしているこの地の主だと言う。そんなおまえが、人間から脱落した者のために、無意味な反逆を起こす。ああ面白い。有象無象の残響を聞くのは、何と面白いのだろう
水気を帯びた風が、ふたりを撫でた。ふたりは動かなかった。
――人も妖も、残響になれば実に美しい。残響はただ、奴らのかつて定めた掟の中で、さまよい続ける。理。掟。法。あらゆる者が己に見合ったそれを作り、それを守るために生きる。残響になってまで、その中で踊り続けられるようにな。その姿は美しい
首長は自らの尾を高々と掲げた。それは一人の少年を捕えていた。
――……春吉……
蜘蛛の八本の肢が姿を現し、泥濘に突き刺さると同時、首長は、少年を水の中へと引きずり込んだ。それを追う間もなく、怒濤の勢いで水が舞い上がった。
――姐さん、よけろ!
蛇が叫んだその時、鉤爪が、水の壁を切り裂いた。しかし、その二倍があろうかという二枚目の水の壁が、その先に立ちふさがった。
――やめろ! おっつかねえ
大蛇と化して、全力で蜘蛛の脇腹を突き、はじく。水が踊る。水が打ち寄せる。ふたりは水に呑まれた。濁った視界で、蛇は流れに逆らった。
――あたい、もうわけがわかんねえよ
巨大な縞蛇は自嘲気味に心中で呟くと、意を決した。そして沼に向かった。
夢を見ていた。少年は叫んでいた。
――やめてくれ! おねげえだ!
誰かが何かを喚いた。内容がわからない。一人ではない。皆、口々に何かを言う。腐臭を放った一塊のオトとなって、少年を取り巻く。
――おねげえだ! おら、なんも知らねえ!
地面にたたき伏せられた少年の前で、砕かれた笛の破片が、赤いものに濡れている。
抵抗しようと、腕を上げると、感触がなかった。代わりに、罵声と、水の滴るオトが聞こえた。何のオトだろうと考えていた。彼は薄目を開けた。視界の向こうが明るかった。時間も場所もすっかり変わってしまっていたようだ。倒れている彼を、たくさんの眼が見ていた。憎しみの目ではなかった。春吉は、笛吹きの春吉は、笑った。
――おらな……
と少年は胸を詰まらせた声で言った。
――おらな……おらな……
なぜだかわからないが、皆、笑っていた。素朴な微笑みを浮かべていた。
――みんながおらの笛聞いて、楽しいって笑ってくれたんで……嬉しかっただよ。そんで、おらも笛吹くと楽しいから、とっても嬉しかっただよ
だが、誰からも返事がない。少年の頬で、涙と血が混ざり合った。
苦しくて、瞬きをひとつした。ムラの人々が、いや、ムラそのものがひとつの生き物のようになって、いつの間にか、彼を睨んでいた。
――なあ、嬉しかったよう。おら、ほんとうに……
陰気にざわめくムラ人が、故郷のムラが、ゆらゆらと揺れる。
――盗っ人が!
――叩き殺せ!
突然、言葉が彼の頭を貫いた。体中に疼くすべての傷が、蘇ってくる。
――いやだ!
春吉の心が強く抵抗した。もがく手は、擦り傷のためにべったりと濡れていた。息苦しい。そこに空気がないかのように。冷水に呑まれ、みるみる冷えてゆく身体。その芯に、一陣の風に吹かれたような、それでいてほのかに温かい感覚が過ぎった。
――春ちゃん
彼は春の光の中にいた。たった二人で野原にいた。若葉色の光。彼の隣には少女がいた。
濁り水の速い流れの中で、光がゆらりゆらり。影をまとって揺れる。一匹の蛇が泳いでいた。首長の巨大な尾がその前で揺れる度、光と闇が渦巻いた。
――春吉。笛吹きの春吉……
蛇は流れを無理に突っ切って、少年の左腕に巻き付き、ぐいと上へ引いた。しかし、動かなかった。少年は眠っているように見えた。蛇は自分の体中にざわめきを聞いた。
――笛吹きの春吉……。笛を吹いてくれよ。おまえのオトってさ、何でもないオトなんだ。不思議なオトなんだ。もう一度吹いてくれよ。吹いてくれたら、そのオトは、あたいの中を通り抜けて、全部透き通らせちまうんだ。おまえの……オトが……
流れが変わった。彼らの下の、遙かな深みから、首長の首が、猛進してくる。睨み合う二匹。天の蛇。獄の魚。首長が迫る。威圧するように眼を光らせて、襲いかかる。蛇は迷わない。その喉元に噛みついた。大きさがあまりに違う。傷は浅い。
光と泡が渦を巻くのも一瞬。蛇はひるがえるように泳ぎ、拘束の揺るんだ隙に少年を絡め取り、息をするために陸にあがる。あがりざま、草陰へ。引きずり込んで寝かせた少年の全身は冷え、呼気はひどく弱っていた。陽光と闇が織り成す、揺らめく縞の中に同化し、じっと恐怖をかみ殺す。湖が怒っている。どくどくと、ごうごうと、復讐の機を待って唸っている……。
春吉は眠っていた。夢の中。はかり知れないほどの郷愁の風が、彼を包んでいた。うずくまる彼の肩に、春の花にも似た娘が手を置いた。
――ねえ、春吉。笛を吹いて
しかし、吹こうとすると、笛がなかった。
――春ちゃん……
呼びかけると、少女もいなかった。彼は、自分が死んでいるのに気がついた。慈悲を乞う声も空しく、とっくに殺されていたことに、気がついてしまった。泣こうにも喚こうにも声がない。そこにはただオトがたなびいて、オトが閃いて、オトが荒れ狂っていた。
地上に首を伸ばした首長は、蛇の喉元目前で身体を硬直させた。元いた水の中へ、ずぶずぶと引き戻される。抵抗を試みるが、身体はむやみに舞うばかり。みるみる水に食われてゆく。体の中を、激しいざわめきが支配していた。
――何ゆえか。何ゆえ肉が、骨がざわめく
(嫌っているからさ)
少年は眼を開けた。狂おしいほど、動悸が速くなる……。心臓の中を音の獣が這い回る。
(おまえのオトが、おまえの掟を、嫌っているからさ)
水に半身を浮かべ、そっと手で唇をぬぐう。森が共鳴して、風が行き、風が戻り、また静かになる。笛がその手に舞い戻る。笛吹きの春吉。今、その笛に唇を近づけて……。
たった一音。たった一音が震え、悶え、渦を成した。音の渦潮の中で、幾千の水の礫と、幾千の空気の槍が回る。潮はどこまでも尾を引いて吠える。
「おれのオト、死んでらあ」
少年はぞっとするほど低い声で言った。
「死んでるオトでも、吹けば生きたがる」
自嘲するように喉の奥で笑う。黒い大鰻を弄びながら。
具現化しない音の獣が、脚をうまく使えずに這う。脚を使うことさえも怖れ、震えている、どす黒い苛立ちを、少年の笛が透明な緊張の糸で縛っている。
(沈・め)
冷たい涙が伝う。伝いながら微かに震え、オトスクナの皮膚を奏で、彼の笛へと吸われて行った。
(底・なし・の・潮・へ)
そして風を縛る糸が切れた。
(沈・め)
気泡がのぼった。沈黙があった。やがて、ゆらりと浮かんできた白い胴体が、水面にいびつな紋を作る。その不可知の奏が聞こえるというのか、春吉の笛は水に調べを継がせるように、無音の旋律を中断した。腹に響くような、黙祷にも似た無音へと変わった。少年の背後で、二つの妖は待っていた。その休符が終わるのを、ただじっと。
「あんがと」
やがて、春吉は言った。蛇と蜘蛛を振り返り、じっと見つめ、あんがと、と繰り返した。
と、少年は落ちていた木の枝を掴むと、浅い泥濘をひちゃひちゃと歩く。春吉は一匹の大鰻を木の枝でたぐり寄せると、手で掴もうとして落とし、また掴もうとして落としたが、やっとしっかりその首を掴むと、明るい顔で、ふうとため息をつく。
「あは。旨そうだ。みんなで食うだよ」
春吉はかつての森の主によく似た魚を大事そうに持って、機嫌をよくしていた。
「遠慮する」
とふたりの妖は言った。
またしばし後。ためらいなく、調理は終わった。きんきんと輝く目で焼き魚を見つめる春吉。その隣の樹上では、蜘蛛の女が微かな笑みを浮かべながら、数匹の蝶が飾りのように貼りついている、巨大な蜘蛛の巣を眺めていた。
蛇は少し離れたところでふてくされていた。
――やっぱりあいつは信用おけねえな
一人ごちつつ、河のそばをよぎる肥えた蛙を横目で捉える。一匹。二匹。ほんの一瞬の動きで、蛇は蛙をひとつ飲み込むと、舌をちろりと出しては引っ込め、機嫌悪そうに輪の形に伸びて寝転がった。
――だってェ。心配すなと言いながら、よりによって、このあたいの前でさァ
ころんと向きを変える。
――細くてにょろにょろしたもんを食ってるじゃあないか! 何だべか、あの幸せそうな顔は! あいつはいかん……きっと、いかん
振り返ると、すぐ近くに当の春吉がいた。何やら青いものを手にして、しゃがみ込んでこちらを見ている。蛇はぽかんとした。彼はいきなり喋くった。
「なあなあ。蛙の殿様、捕まえただよ。ふふふ。これも喋るだよ。面白いだよ。これもおらが妖怪さんになっちまったからなのかなぁ。なあ、おらの蛇ちゃん」
――……おらの蛇ちゃん、だと? へっ。気安いね!
蛇は春吉の手の上の蛙をぱくりと奪い取ると、首を高くもたげてから、そっぽを向いた。
――……あたいにはお断りもねェのかい……?
春吉は少し考え、突然、思い出した、というように目を丸くし、いきなり蛇を持ち上げると、にこりとして言った。
「おらの蛇ちゃんて、呼んでええだか?」
蛇は出しかけた舌を引っ込める。
――……なあ春坊、おまえさん、ほんに馬鹿だねぇ……。ぎゃっ
春吉はいきなり蛇を首にひっかけると、たたたと歩いて蜘蛛に手を振る。蜘蛛――白い衣の女がいかにも見透かしたような表情で見守っているので、蛇は無表情ながらぴくりと震え、少しだけ戸惑った。振り落とされないように、少年の首にそっと巻き付いた。
日が暮れ始めていた。遠く、微かな耳鳴りが聞こえる。とくとくと夜の生命が脈を打ち始める音。その音に応えるように、少年は静かに立ち上がる。そして、そっと笛を持ち上げると、その唇を近づける。そうして、彼は夜の脈となった。二匹の異形は自分たちもまた、この夜の脈の中にあるのを感じていた。
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